2015年12月06日
時は金なり
少し前の話になるんだが、年末調整の書類作成が面倒でうっちゃっておいたら、あっという間に書類受付最終日の前日に。
大急ぎで書類を作り上げ、封筒に詰めて最寄りのポストに投函に行ったら、その日の回収が終わっていた。
年末調整してもらえない!結構な大金(私に取っては)が還って来なくなってしまう!
「やべー、今日中に回収してもらわないと、明日到着なんて絶対無理!」というわけで、まだ回収終わってないポストを探して、市内を車で疾走するはめに。
かつてお金の神様と呼ばれたらしい邱永漢さんが、「後回しにする人はお金持ちにはなれません」と確かおっしゃっていたような記憶があって、これは確かにその通りだなあ、としみじみ感じ入ったのでした。
大急ぎで書類を作り上げ、封筒に詰めて最寄りのポストに投函に行ったら、その日の回収が終わっていた。
年末調整してもらえない!結構な大金(私に取っては)が還って来なくなってしまう!
「やべー、今日中に回収してもらわないと、明日到着なんて絶対無理!」というわけで、まだ回収終わってないポストを探して、市内を車で疾走するはめに。
かつてお金の神様と呼ばれたらしい邱永漢さんが、「後回しにする人はお金持ちにはなれません」と確かおっしゃっていたような記憶があって、これは確かにその通りだなあ、としみじみ感じ入ったのでした。
2015年12月03日
ナゴンとシキブ
「枕草子」には清少納言(以下「ナゴン」ⓒ小迎裕美子)の、中宮定子に対する深すぎる敬愛があふれている
。
貴族とはいっても中流の出で、中宮が親しく交わるような身分ではなかったナゴンを、中宮定子はたいへんに重用した。
私、中宮はナゴンが出仕したとき、「いやーん、やっとマニアックな話のできる人が来てくれたわー」ってすごく嬉しかったんだと思うんだよね。
同時代を生きた
紫式部は、女が漢字なんか読み書きできるのなんざ恥だっていうので「一」も知らないふりしてたっていうからさ、「香炉峰の雪は?」「簾をかかげて見る!」「はい正解!」みたいなやりとりできるのが楽しくて仕方なかったんじゃないかな。
マニアックな話って盛り上がるよねー。「DNA抽出かー。酵素?」「シンプルにエタ沈じゃないすか」「あー、エタ沈!」みたいなさ。あまり上手い例じゃなかったな。
楽しく会話するためのスキルやマナーで話を合わせるのもいいけど、自分が話したいと思う事を、「こんなこと話してわかってもらえるかな」なんて心配せずに話せる、話の合う人が身近にいたらめちゃくちゃ楽しいじゃん?なんか辛い事があっても、「でも、私には私の事わかってくれてる人がいるから」って思えれば、辛い事も乗り越えられるし一人でいたって孤独じゃないんだよね。世間話程度の話ばっかりを楽しくしてたって、つまんないし寂しいじゃん。
でも、そういう、興味の方向とかセンスとか知性とか教養とか、人間性まで含めて「周波数の合う」人って滅多にいないから、もう定子さま、ナゴンが参内してると「今日はどんなおしゃべりをしようかしら?何を話してもナゴンはナイスな返しをしてくれるから!」って、安心して何の遠慮もなくエスプリかましてたんだと思う。「この人にこんなこと言って、ちゃんとわかってもらえるかしら?」なんていちいち考えながら会話しても楽しくないからね。「ナゴンが相手だと、わたくしは自分全開でいられるの!」みたいな気楽さがあったんじゃないかなあ。
さて、そんなナゴンをこきおろしたシキブですが、もしもシキブとナゴンがエスプリ全開のサロンで同僚やってたら、これは相乗効果ですごいことになったかもね。互いに負けるもんか魂でエスプリの応酬。好敵手がいることは人間が向上するのにとても有効ですから。見たかったなあ、それ。

枕草子 本日もいとをかし!! / 小迎裕美子 【単行本】
価格:1,188円(税込、送料別)
貴族とはいっても中流の出で、中宮が親しく交わるような身分ではなかったナゴンを、中宮定子はたいへんに重用した。
私、中宮はナゴンが出仕したとき、「いやーん、やっとマニアックな話のできる人が来てくれたわー」ってすごく嬉しかったんだと思うんだよね。
同時代を生きた
![]() 紫式部日記 人生はあはれなり… / 小迎裕美子 【単行本】 |
マニアックな話って盛り上がるよねー。「DNA抽出かー。酵素?」「シンプルにエタ沈じゃないすか」「あー、エタ沈!」みたいなさ。あまり上手い例じゃなかったな。
楽しく会話するためのスキルやマナーで話を合わせるのもいいけど、自分が話したいと思う事を、「こんなこと話してわかってもらえるかな」なんて心配せずに話せる、話の合う人が身近にいたらめちゃくちゃ楽しいじゃん?なんか辛い事があっても、「でも、私には私の事わかってくれてる人がいるから」って思えれば、辛い事も乗り越えられるし一人でいたって孤独じゃないんだよね。世間話程度の話ばっかりを楽しくしてたって、つまんないし寂しいじゃん。
でも、そういう、興味の方向とかセンスとか知性とか教養とか、人間性まで含めて「周波数の合う」人って滅多にいないから、もう定子さま、ナゴンが参内してると「今日はどんなおしゃべりをしようかしら?何を話してもナゴンはナイスな返しをしてくれるから!」って、安心して何の遠慮もなくエスプリかましてたんだと思う。「この人にこんなこと言って、ちゃんとわかってもらえるかしら?」なんていちいち考えながら会話しても楽しくないからね。「ナゴンが相手だと、わたくしは自分全開でいられるの!」みたいな気楽さがあったんじゃないかなあ。
さて、そんなナゴンをこきおろしたシキブですが、もしもシキブとナゴンがエスプリ全開のサロンで同僚やってたら、これは相乗効果ですごいことになったかもね。互いに負けるもんか魂でエスプリの応酬。好敵手がいることは人間が向上するのにとても有効ですから。見たかったなあ、それ。
2015年12月02日
confessionは一人で
えーと、Jリーグのサポーターが黒人選手に対して人種差別発言をかまして問題になった件について。
これ、差別「的」なんてボカしたら駄目ですね。「 差 別 発 言 」です。件の発言主は反省しているということで、「反省できる感性がある人で良かったね」というのが私の心境の正確な表現でしょうかね。
たぶん彼は、すーごく軽い気持ちでついつい「やっちまった」んだとは思います。けど、軽い気持ちだろうがじゅうじゅう承知の上だろうが、やったらいけないことは、やったらいけない。そういうことが人の生きる社会にはたくさんあって、差別に関するさまざまな事はほぼ全てが「それ」に該当すると言っても言い過ぎではないでしょう。「ならぬものはならぬ」というのはこういうことです。
「軽い気持ちでやったことだから」「本人も反省しているから」というのは、差別は許されない、ということとはまた別の話。「過ちを反省する」、そして「反省している人を許容する」ということと、差別とは、全然別の問題です。ごっちゃにしないように。
しかし、彼がやっちまってから周りの、(多分)たくさんの大人たちに叱られた、というのはまあちょっと、本当に本当にちょーっとだけ可哀想かな。高校生にもなれば分別もつきますし、人種差別について習ったこともあるでしょう。だから、「自分がしたのは、悪い事だ」という自覚がなければ未熟にすぎますね。けれど、いい大人がごくカジュアルに差別しているのを、我々はごく普通に見聞きします。しかも、差別してる当人は、それが真っ当とか正義だとか信じてたりもします。
「女は男より劣っているのだから、給料が少なくても当然」とか、「生活保護は働かないで金貰って狡い」とか、「在日には特権がある」とか、それを言っている人たちは「むしろ自分達の方が虐げられているのだ」と信じていると思いますよ。「自分達の方が弱者なのだから、強く声をあげて、何の悪い事があろうか」と信じているからこその主張なのでしょう。大まつがいだけど。
私が思うに、日本人には「弱者は正しい」という「道(どう)」がありますね。「金持ちは汚い」とか、「年長者は若者よりも利口だ」とか「男は女よりも上等」とか「大人は子どもよりも偉い」とか、「日本人は世界で愛されてる」とかそういった、何だろう、定型というか、思い込みというか、クリシェというか、「そうしておいた方が通りがいい」程度のふわっとした合意があります。
それら全部、大体大まつがい。決定的な根拠はありません。
「人は必ず、いつか死ぬ」ということでさえ、我々が現時点で断言することはできません。明日生まれる赤ん坊が、いつか必ず死ぬとは今日の私には断言できないのです。
「自分は弱者なのだから、このくらいの言動は許されるはず」などという甘っちょろい考えは棄てましょう。「私は弱者」と断言はできないし、「弱者は許されるべき」という主張に根拠はありません。
で、人種差別発言をかました人が反省して二度と同じ過ちを繰り返さないでいてくれたらいいなと思います。
ちょっと心配なのは、日本人は葛藤に耐えるのが下手すぎるというところ。「自分は悪い事をした」「だが、自分が悪い事をした悪い人間だとは認めたくない」「だが、事実は事実なんだから認めなくては仕方ない」というような、相反する感情を持ち続けてそれを上手くhandleするのが日本人は下手すぎる。葛藤に耐えられなくてみっともなくなる人、いっぱいいますね。
件の人種差別発言と本質的に変わらないことを本音で思っている人、いっぱいいると思います。自分が思っている事が、世間を騒がせてたくさんの人に叱られるような「悪い」ものであったということを、その人たちがちゃんと受け止められるのかどうか。
ばつが悪すぎるあまりに、何とか軽く済ませようとみっともない行為に及びはしないか。
そういう心理状態のときにやりがちなのは、「自分、こんなことしちゃってさー」と周囲の人間達に誡告すること。話す事で、多少楽になりますね。そして日本人は空気を読む事に長けていますから、「私はこんなことをしました」という罪悪感の(罪の、ではない)告白に対して、「それは許されないことをしてしまいましたね」と言う人は多分ほとんどいませんね。「誰だって失敗はするよー」めいたお慰みによって、自分の過ちと向き合わずにすませる人が居たら困ったな。過ちが繰り返されますから。
どうかくれぐれも、「みんなが許してくれたから」という理由で罪の意識を軽くなどなさいませんよう。「みんな」を自分の過ちに巻き込んではいけません。だって、「自分が楽になりたいから」話しただけでしょ?話したら、罪悪感が薄れるんでしょ?自己中だよね、それ。
大体、「みんな」が許してくれたからって、それが正義かどうか。「みんな」ってテキトーでいいかげんですよ他人にたいして。私やあなたがそうであるように。
誡告は、自分が自分に対して行うのが良いと思います。反省すれば、「みんな」は許してくれます。「死人に鞭打つなかれ」ですから。だが、まちがいは帳消しにはならない。まちがいを薄めていくのは、間違いをもう犯すまい、という決心とそこから現れる行動です。
自分のいたたまれなさを他人にぶっかけて、それで「ああラクになった」で済ませるのはバカみたいな行為です。いたたまれなさはそのまま、いたたまれないままにそれでも日々を過ごしていくのでなければ、過ちを経て人間性を上げていくという、過ちが持っている陽の側面を全く無駄にする愚行ですね。
我々は、たぶん簡単に楽にはなれないもののようなのです。まあ断言はできないけど。
これ、差別「的」なんてボカしたら駄目ですね。「 差 別 発 言 」です。件の発言主は反省しているということで、「反省できる感性がある人で良かったね」というのが私の心境の正確な表現でしょうかね。
たぶん彼は、すーごく軽い気持ちでついつい「やっちまった」んだとは思います。けど、軽い気持ちだろうがじゅうじゅう承知の上だろうが、やったらいけないことは、やったらいけない。そういうことが人の生きる社会にはたくさんあって、差別に関するさまざまな事はほぼ全てが「それ」に該当すると言っても言い過ぎではないでしょう。「ならぬものはならぬ」というのはこういうことです。
「軽い気持ちでやったことだから」「本人も反省しているから」というのは、差別は許されない、ということとはまた別の話。「過ちを反省する」、そして「反省している人を許容する」ということと、差別とは、全然別の問題です。ごっちゃにしないように。
しかし、彼がやっちまってから周りの、(多分)たくさんの大人たちに叱られた、というのはまあちょっと、本当に本当にちょーっとだけ可哀想かな。高校生にもなれば分別もつきますし、人種差別について習ったこともあるでしょう。だから、「自分がしたのは、悪い事だ」という自覚がなければ未熟にすぎますね。けれど、いい大人がごくカジュアルに差別しているのを、我々はごく普通に見聞きします。しかも、差別してる当人は、それが真っ当とか正義だとか信じてたりもします。
「女は男より劣っているのだから、給料が少なくても当然」とか、「生活保護は働かないで金貰って狡い」とか、「在日には特権がある」とか、それを言っている人たちは「むしろ自分達の方が虐げられているのだ」と信じていると思いますよ。「自分達の方が弱者なのだから、強く声をあげて、何の悪い事があろうか」と信じているからこその主張なのでしょう。大まつがいだけど。
私が思うに、日本人には「弱者は正しい」という「道(どう)」がありますね。「金持ちは汚い」とか、「年長者は若者よりも利口だ」とか「男は女よりも上等」とか「大人は子どもよりも偉い」とか、「日本人は世界で愛されてる」とかそういった、何だろう、定型というか、思い込みというか、クリシェというか、「そうしておいた方が通りがいい」程度のふわっとした合意があります。
それら全部、大体大まつがい。決定的な根拠はありません。
「人は必ず、いつか死ぬ」ということでさえ、我々が現時点で断言することはできません。明日生まれる赤ん坊が、いつか必ず死ぬとは今日の私には断言できないのです。
「自分は弱者なのだから、このくらいの言動は許されるはず」などという甘っちょろい考えは棄てましょう。「私は弱者」と断言はできないし、「弱者は許されるべき」という主張に根拠はありません。
で、人種差別発言をかました人が反省して二度と同じ過ちを繰り返さないでいてくれたらいいなと思います。
ちょっと心配なのは、日本人は葛藤に耐えるのが下手すぎるというところ。「自分は悪い事をした」「だが、自分が悪い事をした悪い人間だとは認めたくない」「だが、事実は事実なんだから認めなくては仕方ない」というような、相反する感情を持ち続けてそれを上手くhandleするのが日本人は下手すぎる。葛藤に耐えられなくてみっともなくなる人、いっぱいいますね。
件の人種差別発言と本質的に変わらないことを本音で思っている人、いっぱいいると思います。自分が思っている事が、世間を騒がせてたくさんの人に叱られるような「悪い」ものであったということを、その人たちがちゃんと受け止められるのかどうか。
ばつが悪すぎるあまりに、何とか軽く済ませようとみっともない行為に及びはしないか。
そういう心理状態のときにやりがちなのは、「自分、こんなことしちゃってさー」と周囲の人間達に誡告すること。話す事で、多少楽になりますね。そして日本人は空気を読む事に長けていますから、「私はこんなことをしました」という罪悪感の(罪の、ではない)告白に対して、「それは許されないことをしてしまいましたね」と言う人は多分ほとんどいませんね。「誰だって失敗はするよー」めいたお慰みによって、自分の過ちと向き合わずにすませる人が居たら困ったな。過ちが繰り返されますから。
どうかくれぐれも、「みんなが許してくれたから」という理由で罪の意識を軽くなどなさいませんよう。「みんな」を自分の過ちに巻き込んではいけません。だって、「自分が楽になりたいから」話しただけでしょ?話したら、罪悪感が薄れるんでしょ?自己中だよね、それ。
大体、「みんな」が許してくれたからって、それが正義かどうか。「みんな」ってテキトーでいいかげんですよ他人にたいして。私やあなたがそうであるように。
誡告は、自分が自分に対して行うのが良いと思います。反省すれば、「みんな」は許してくれます。「死人に鞭打つなかれ」ですから。だが、まちがいは帳消しにはならない。まちがいを薄めていくのは、間違いをもう犯すまい、という決心とそこから現れる行動です。
自分のいたたまれなさを他人にぶっかけて、それで「ああラクになった」で済ませるのはバカみたいな行為です。いたたまれなさはそのまま、いたたまれないままにそれでも日々を過ごしていくのでなければ、過ちを経て人間性を上げていくという、過ちが持っている陽の側面を全く無駄にする愚行ですね。
我々は、たぶん簡単に楽にはなれないもののようなのです。まあ断言はできないけど。
2015年11月24日
初老
けっこう前の話だが、「月曜からよふかし」で「初老とは、40代から」というネタをとりあげて、マツコが「私、初老なのね」と言っていた。
マツコと同い年の私も、勿論初老である。
が、私は自分が初老だなんてことは、じゅうじゅうご承知なので今更驚きはしない。
なにしろ、目の焦点が合わないのだ。老眼であろう。ペンを握って字を書くなんてこの頃ではあまりしないが、自分で書いている字がぼんやりとしか見えていなくても、「だいたい、こんな形でよかった」くらいの感覚で書いている。本当に冗談のように40の坂にさしかかった瞬間に、この目のピンぼけは始まったので、「老いは、これからこうして始まっていくのだ」としみじみ思ったものである。
白髪も増えた。美容院で美容師さんが、仕上げのブローをしながらなんか細かく鋏をつかっている。「何してるんだろう?」と不思議に思ったがすぐ、「あ、白髪か。白髪とはいえ、客の髪を引っこ抜く訳にはいかないのだな」と合点がいった。「染めたほうがいいですかね」「まだ、大丈夫ですよ」などと会話を交わしたが、「まだ」なんて言ってられるのもまあ、今のうちだろうなあ。
あまりすぐにこんな日が来て欲しいわけではないんだが、どうせなら総白髪になって紫色に髪染めてやるんだ。
そういえば、10年前なら難なくこなせたヨガのプログラムで最近脚がこむらがえる。これからは、自覚して体を鍛えて行かないと筋力が落ちて行く一方になるんだろうな。
書いてるうちに流石にしょぼい気持ちになってきたが、歳をとってきて良い事もある。
先日、デパートの化粧品売り場でお化粧を直してもらっていたのだけれど、カウンターに置かれた鏡は、少し下から見上げる角度で顔が映っていた。そしたらさあ、鼻毛に鼻くそがくっついてたんだよね。鼻の外に出てたら流石に気づくじゃん。鼻の穴の中に収まってはいるんだけどさ、下からの角度で映すと見えるのよ。
いやあ、恥ずかしかったわね!売り子さんは見えてない振りとかしてくれてるし。これが若い頃だったらさ、「恥ずかしくてもうあのお店には行けない!」ってなったと思うんだけど、もう今なんか、「鼻の穴から出てなかったんだから、普通に鏡見てるだけじゃわかんない。私がだらしないとかとは違うわ。セーフよ」とか考えちゃって、別に平気だもん。私またあのお店行くと思う。
去年流行った歌みたい。Can't hold it back anymore, Let it go, let it go, I don't care what they're going to say, って。
あー、なんだろう、無駄な自意識とかから自由になったわよね、歳とって。I'm free!!! よ。楽だしさ、変に格好つけてないから、好かれていたい人から好かれるのよ。これが。
まあこれが、ずうずうしいおばさんになることだって言えば、その通りなんですけどね。このくらいならまあ、別に…悪かないと思うわ。図々しくて誰彼かまわず迷惑かけるとかならまだしも、微妙な角度の鏡に秘密の鼻くそ暴かれたって、アタシが恥ずかしいだけですもの…。とほほ。
流石に、同じ店員さんに接客されるのはイヤだなあ。
娘さんよくきけよ。意外なほど初老って早く来るぞ。そして化粧品買いに行く前には、あらゆる角度から、鼻の穴を確認しておくのが吉ですよ。
マツコと同い年の私も、勿論初老である。
が、私は自分が初老だなんてことは、じゅうじゅうご承知なので今更驚きはしない。
なにしろ、目の焦点が合わないのだ。老眼であろう。ペンを握って字を書くなんてこの頃ではあまりしないが、自分で書いている字がぼんやりとしか見えていなくても、「だいたい、こんな形でよかった」くらいの感覚で書いている。本当に冗談のように40の坂にさしかかった瞬間に、この目のピンぼけは始まったので、「老いは、これからこうして始まっていくのだ」としみじみ思ったものである。
白髪も増えた。美容院で美容師さんが、仕上げのブローをしながらなんか細かく鋏をつかっている。「何してるんだろう?」と不思議に思ったがすぐ、「あ、白髪か。白髪とはいえ、客の髪を引っこ抜く訳にはいかないのだな」と合点がいった。「染めたほうがいいですかね」「まだ、大丈夫ですよ」などと会話を交わしたが、「まだ」なんて言ってられるのもまあ、今のうちだろうなあ。
あまりすぐにこんな日が来て欲しいわけではないんだが、どうせなら総白髪になって紫色に髪染めてやるんだ。
そういえば、10年前なら難なくこなせたヨガのプログラムで最近脚がこむらがえる。これからは、自覚して体を鍛えて行かないと筋力が落ちて行く一方になるんだろうな。
書いてるうちに流石にしょぼい気持ちになってきたが、歳をとってきて良い事もある。
先日、デパートの化粧品売り場でお化粧を直してもらっていたのだけれど、カウンターに置かれた鏡は、少し下から見上げる角度で顔が映っていた。そしたらさあ、鼻毛に鼻くそがくっついてたんだよね。鼻の外に出てたら流石に気づくじゃん。鼻の穴の中に収まってはいるんだけどさ、下からの角度で映すと見えるのよ。
いやあ、恥ずかしかったわね!売り子さんは見えてない振りとかしてくれてるし。これが若い頃だったらさ、「恥ずかしくてもうあのお店には行けない!」ってなったと思うんだけど、もう今なんか、「鼻の穴から出てなかったんだから、普通に鏡見てるだけじゃわかんない。私がだらしないとかとは違うわ。セーフよ」とか考えちゃって、別に平気だもん。私またあのお店行くと思う。
去年流行った歌みたい。Can't hold it back anymore, Let it go, let it go, I don't care what they're going to say, って。
あー、なんだろう、無駄な自意識とかから自由になったわよね、歳とって。I'm free!!! よ。楽だしさ、変に格好つけてないから、好かれていたい人から好かれるのよ。これが。
まあこれが、ずうずうしいおばさんになることだって言えば、その通りなんですけどね。このくらいならまあ、別に…悪かないと思うわ。図々しくて誰彼かまわず迷惑かけるとかならまだしも、微妙な角度の鏡に秘密の鼻くそ暴かれたって、アタシが恥ずかしいだけですもの…。とほほ。
流石に、同じ店員さんに接客されるのはイヤだなあ。
娘さんよくきけよ。意外なほど初老って早く来るぞ。そして化粧品買いに行く前には、あらゆる角度から、鼻の穴を確認しておくのが吉ですよ。
2015年10月13日
ジョリィふたたび
40才以上の皆様、憶えてらっしゃいますか?アニメ、「名犬ジョリィ」。「白い魔犬」と恐れられたグレート・ピレニーズと少年セバスチャンの冒険譚でございますよ。
これが実写化されました。「ベル&セバスチャン」
あたくしは観にまいりますよ。わたしの愛する、アンドレアス・ピーチュマンがナチの将校役で出演していますから。

ああ、アンディの姿を日本で、スクリーンで観られる日が来るとは。感無量でございますよ。
まあ、ナチの将校なんで本作では悪役なんですが、彼はガチな宗教映画でキリストの役もやっています。

この、青と赤の衣ね。西洋絵画に親しんでいらっしゃる方には既知のお約束ですね。
キリスト教徒の国で、キリストを演じる。これはすごいことなんですよ。
流石は、わたしの愛するアンディ君。
これが実写化されました。「ベル&セバスチャン」
あたくしは観にまいりますよ。わたしの愛する、アンドレアス・ピーチュマンがナチの将校役で出演していますから。

ああ、アンディの姿を日本で、スクリーンで観られる日が来るとは。感無量でございますよ。
まあ、ナチの将校なんで本作では悪役なんですが、彼はガチな宗教映画でキリストの役もやっています。

この、青と赤の衣ね。西洋絵画に親しんでいらっしゃる方には既知のお約束ですね。
キリスト教徒の国で、キリストを演じる。これはすごいことなんですよ。
流石は、わたしの愛するアンディ君。
2015年10月12日
顔のないヒトラーたち
ドイツでは、日本でやる「挙手」のように大きく手を挙げるのはダブーなんだそうだ。「ハイル・ヒトラー」を連想させるからだとか。
こんな枕で始めたのは、先日、「顔のないヒトラーたち」という映画を観たから。日本では、我々と同じく敗戦国のドイツにおける戦後補償について、「あれはナチのやったこと。ヒトラーという狂人のやったこと」と、「ドイツ人」の責任にせずにすんでいるのだ、という話を私は昔、TVで聞いたんだ。
けれど、この映画を観るとそれは違うんじゃないかと思う。こういう映画が作られるということは、ドイツ人は、「アウシュヴィッツの責任は、我々ドイツ人が負う」と決めているんじゃないかと。
以下、ネタばれ含みます。映画を未見の方はご注意くださいね。
物語が始まるのは、1958年。多くのドイツ人達は、アウシュヴィッツを、そこで何が行われていたのかを知らなかった。そこで行われていたことを知っていたドイツ人達は、「知らせず、葬り去ろう」と思っていた。けれど、そうはならなかった。アウシュヴィッツを知っていて、そこで行われていた事を、世間に知らせようと思っていた人物たちがいたからだ。それら人物には、生き残りのユダヤ人や、アウシュヴィッツを恥じた当のドイツ人もいた。
「ドイツ人は、ナチとドイツ人を分離して戦争責任を考えている」と日本人の識者は言ったけれども、第二次大戦当時のドイツ人の多くはナチだった。主人公が、自分の父親もナチの党員だったことを知り、やさぐれて酔っぱらい、道行く見ず知らずの人びとに「あんたもナチだったのか」と絡むシーンがある。
さしずめ日本ならば、「あんたも軍国主義だったのか」と絡むようなものだろう。「違う」と言ったならば、多くの日本人は嘘吐きになったはずだ。
これが「凡庸な悪」である。「悪人は凡庸である」という意味ではない。凡庸な人間は、「空気」に簡単に流されてしまう。これが悪なのだ。そういう世の中になれば、私も流されるだろう。しかし、生来気弱で小心なので大悪にはなれない。小悪人がせいぜいだ。そして、悪人である自分を認めたくなくてぐだぐだと言い訳するんだろうと思う。
1958年のドイツ人たちにも、そういうところがあった。そういえば、ナチに反発して米軍を支持したマレーネ・ディートリヒは「売国奴」と呼ばれた。だが、今のドイツ人は違うように私には見える。「ホロコーストは、ドイツ人がやったこと」と認めているように見える。
その根底にあるのは、この映画を観るかぎりでは、「人が人に対して何という残虐を行ったのか」という驚愕にあるように思う。ユダヤ人に加えられた想像を絶する非道な行為が、私に加えられたものだったなら、という想像にあるように思う。ユダヤ人もドイツ人も、同じ「人」なのだという認識が、挙手でさえタブーにする今のドイツを作ったのだと思う。
ひるがえって我々日本人はどうだろうか。ユネスコが南京大虐殺を記憶遺産に登録したことについて、「そんなことするならもうユネスコに金はださないよ(意訳)」と政府の公人が述べたのはどうだろうか。「シベリア抑留」が登録されたことは諸手を挙げて歓迎したくせにさ。
南京大虐殺の「犠牲者の数」がプロパガンダに利用されている節があるのは否めない。だが、だからといって虐殺の有無そのものが問われるものなのか。いや、私ほんとうにわからないのよ。日本に生まれて日本から出た事ないからさ、南京大虐殺って史実なわけ?日本の報道だと、わからない。おそらく、実際に虐殺の事実はあったんだろうと私は思ってる。これが史実かどうかさえ私があやふやなのは、日本人は記録を燃したり墨でつぶしたりすることを、私知ってるからさ。
責任を誰もとらない。東京五輪関係のごたごたで、再度はっきりとしちゃった。日本人が何を言っても、私はそれを鵜呑みにはしない。事実関係を、自分なりに確認するまでは。
第二次世界大戦当時、日本人は中国人を殺した。これは間違いない。だってそういうのが戦争だからさ。勿論、日本人も殺されたんだけど。だってそういうのが戦争だからさ。
日本は戦争をした。それは史実だ。人を殺さない戦争は無い。だから、当時の日本人は、人を殺したんだ。これは、認めなくちゃ何にも始まらない。日本人が殺されもしたけど、だからってそれで人を殺した事が相殺されはしない。だって、それが人の掟ってものじゃない?情状は酌量されても、殺人は殺人なんだよ。
私は、人って何とか国民の何民族だろうと、本質は違わないっていう信念を持っている。柴犬だろうがダックスフントだろうが犬は犬なのと同じように、人は人だ。
ドイツ人にできることが、日本人にできないはずはない。
受け入れがたい事を前にしても、まずは感情を抑えなくてはなるまい。それが出来なければ、人は「凡庸な悪」でしかない。ドイツ人であろうと、日本人であろうと、他の誰であろうと。
第二次世界大戦当時、軍国主義者だったのは私たちのおじいちゃんやおばあちゃん。父さんや母さん。「仕方なかった」ですませたいのはやまやまだが、そうしたらまた同じ轍を踏むかもしれない。そのとき殺すのは、殺されるのは、今は亡きおじいちゃんやおばあちゃんや父さんや母さんではなく、今生きている私やあなたかもしれない。
思考を停止しないで。
「顔のないヒトラーたち」、原題は「沈黙の迷宮で(Im Labyrinth des Schweigens)」という。辛気くさい反省映画ではない。ドイツの戦後に興味もなかった私をグイグイ物語に引きつけた娯楽作でもある。この脚本、すごいと思う。興味のある方はぜひ、ご覧になってください。面白いですよ。
こんな枕で始めたのは、先日、「顔のないヒトラーたち」という映画を観たから。日本では、我々と同じく敗戦国のドイツにおける戦後補償について、「あれはナチのやったこと。ヒトラーという狂人のやったこと」と、「ドイツ人」の責任にせずにすんでいるのだ、という話を私は昔、TVで聞いたんだ。
けれど、この映画を観るとそれは違うんじゃないかと思う。こういう映画が作られるということは、ドイツ人は、「アウシュヴィッツの責任は、我々ドイツ人が負う」と決めているんじゃないかと。
以下、ネタばれ含みます。映画を未見の方はご注意くださいね。
物語が始まるのは、1958年。多くのドイツ人達は、アウシュヴィッツを、そこで何が行われていたのかを知らなかった。そこで行われていたことを知っていたドイツ人達は、「知らせず、葬り去ろう」と思っていた。けれど、そうはならなかった。アウシュヴィッツを知っていて、そこで行われていた事を、世間に知らせようと思っていた人物たちがいたからだ。それら人物には、生き残りのユダヤ人や、アウシュヴィッツを恥じた当のドイツ人もいた。
「ドイツ人は、ナチとドイツ人を分離して戦争責任を考えている」と日本人の識者は言ったけれども、第二次大戦当時のドイツ人の多くはナチだった。主人公が、自分の父親もナチの党員だったことを知り、やさぐれて酔っぱらい、道行く見ず知らずの人びとに「あんたもナチだったのか」と絡むシーンがある。
さしずめ日本ならば、「あんたも軍国主義だったのか」と絡むようなものだろう。「違う」と言ったならば、多くの日本人は嘘吐きになったはずだ。
これが「凡庸な悪」である。「悪人は凡庸である」という意味ではない。凡庸な人間は、「空気」に簡単に流されてしまう。これが悪なのだ。そういう世の中になれば、私も流されるだろう。しかし、生来気弱で小心なので大悪にはなれない。小悪人がせいぜいだ。そして、悪人である自分を認めたくなくてぐだぐだと言い訳するんだろうと思う。
1958年のドイツ人たちにも、そういうところがあった。そういえば、ナチに反発して米軍を支持したマレーネ・ディートリヒは「売国奴」と呼ばれた。だが、今のドイツ人は違うように私には見える。「ホロコーストは、ドイツ人がやったこと」と認めているように見える。
その根底にあるのは、この映画を観るかぎりでは、「人が人に対して何という残虐を行ったのか」という驚愕にあるように思う。ユダヤ人に加えられた想像を絶する非道な行為が、私に加えられたものだったなら、という想像にあるように思う。ユダヤ人もドイツ人も、同じ「人」なのだという認識が、挙手でさえタブーにする今のドイツを作ったのだと思う。
ひるがえって我々日本人はどうだろうか。ユネスコが南京大虐殺を記憶遺産に登録したことについて、「そんなことするならもうユネスコに金はださないよ(意訳)」と政府の公人が述べたのはどうだろうか。「シベリア抑留」が登録されたことは諸手を挙げて歓迎したくせにさ。
南京大虐殺の「犠牲者の数」がプロパガンダに利用されている節があるのは否めない。だが、だからといって虐殺の有無そのものが問われるものなのか。いや、私ほんとうにわからないのよ。日本に生まれて日本から出た事ないからさ、南京大虐殺って史実なわけ?日本の報道だと、わからない。おそらく、実際に虐殺の事実はあったんだろうと私は思ってる。これが史実かどうかさえ私があやふやなのは、日本人は記録を燃したり墨でつぶしたりすることを、私知ってるからさ。
責任を誰もとらない。東京五輪関係のごたごたで、再度はっきりとしちゃった。日本人が何を言っても、私はそれを鵜呑みにはしない。事実関係を、自分なりに確認するまでは。
第二次世界大戦当時、日本人は中国人を殺した。これは間違いない。だってそういうのが戦争だからさ。勿論、日本人も殺されたんだけど。だってそういうのが戦争だからさ。
日本は戦争をした。それは史実だ。人を殺さない戦争は無い。だから、当時の日本人は、人を殺したんだ。これは、認めなくちゃ何にも始まらない。日本人が殺されもしたけど、だからってそれで人を殺した事が相殺されはしない。だって、それが人の掟ってものじゃない?情状は酌量されても、殺人は殺人なんだよ。
私は、人って何とか国民の何民族だろうと、本質は違わないっていう信念を持っている。柴犬だろうがダックスフントだろうが犬は犬なのと同じように、人は人だ。
ドイツ人にできることが、日本人にできないはずはない。
受け入れがたい事を前にしても、まずは感情を抑えなくてはなるまい。それが出来なければ、人は「凡庸な悪」でしかない。ドイツ人であろうと、日本人であろうと、他の誰であろうと。
第二次世界大戦当時、軍国主義者だったのは私たちのおじいちゃんやおばあちゃん。父さんや母さん。「仕方なかった」ですませたいのはやまやまだが、そうしたらまた同じ轍を踏むかもしれない。そのとき殺すのは、殺されるのは、今は亡きおじいちゃんやおばあちゃんや父さんや母さんではなく、今生きている私やあなたかもしれない。
思考を停止しないで。
「顔のないヒトラーたち」、原題は「沈黙の迷宮で(Im Labyrinth des Schweigens)」という。辛気くさい反省映画ではない。ドイツの戦後に興味もなかった私をグイグイ物語に引きつけた娯楽作でもある。この脚本、すごいと思う。興味のある方はぜひ、ご覧になってください。面白いですよ。
2015年10月04日
witness you
今更自分が戦場に立つ事もないだろうに、「戦争辞すまじ」と勇ましい石原慎太郎。
「もう辞める」といいながら色々と蒸し返し続ける大阪のアンダーザブリッジ。
「世界に賞賛される日本」と言いながら、「難民も移民も来るな。従軍慰安婦は認めない。反日国家くそ」とか言ってる日本の大衆。
勇ましくて強くて利口で清潔で愛される、みたいな自己イメージは非常に大事にするくせに、そういう自分が他者(文字通り他人とか、外国人とか)の目にどう映るかはあまりよく見えていないようだ。
これはある種の日本人が、「他人さんにどう思われるか」を一見気にしているようで、その実気になっているのは「他人が『この自分のことを』どう思っているのか」であって、その他人さんの、「この自分に向けられているもの以外への思い」は別にどうでもいいという姿勢が反映されているよね。
ひらたく言えば、「この人はこの自分のことを好きか嫌いか」とか、「この人は自分の敵か、味方か」は気にするけど、「この人今楽しいかな」とか、「寒くないかな」とか、「困っていることはないかな」とかいうことはあんまり気にしない、みたいな。
他人さんは、そういうあなたの全てを見ている。見たものの全てから、あなたという人の人間性を判断する。
要するに、見くびっていると痛い目にあうし、取り繕ったって無駄だ、ってこと。
他人から見た、自分の評判ばっかり気にしている人は、みっともない。
「もう辞める」といいながら色々と蒸し返し続ける大阪のアンダーザブリッジ。
「世界に賞賛される日本」と言いながら、「難民も移民も来るな。従軍慰安婦は認めない。反日国家くそ」とか言ってる日本の大衆。
勇ましくて強くて利口で清潔で愛される、みたいな自己イメージは非常に大事にするくせに、そういう自分が他者(文字通り他人とか、外国人とか)の目にどう映るかはあまりよく見えていないようだ。
これはある種の日本人が、「他人さんにどう思われるか」を一見気にしているようで、その実気になっているのは「他人が『この自分のことを』どう思っているのか」であって、その他人さんの、「この自分に向けられているもの以外への思い」は別にどうでもいいという姿勢が反映されているよね。
ひらたく言えば、「この人はこの自分のことを好きか嫌いか」とか、「この人は自分の敵か、味方か」は気にするけど、「この人今楽しいかな」とか、「寒くないかな」とか、「困っていることはないかな」とかいうことはあんまり気にしない、みたいな。
他人さんは、そういうあなたの全てを見ている。見たものの全てから、あなたという人の人間性を判断する。
要するに、見くびっていると痛い目にあうし、取り繕ったって無駄だ、ってこと。
他人から見た、自分の評判ばっかり気にしている人は、みっともない。
2015年09月28日
月の輝く夜に
先日、「なぜなんだ」と思っていた件、ツィッターにてこのような意見を読んだ。曰く、「団塊世代の男性は、女子供を見下しているがその自覚が無く、常識的な自分は女子供を教育する責務を負っている、と思っているのでは」と。
そうか、弱いもの虐めどころか、「真っ当な教育的行為」って自己認識かもしれないわけね。「ヒゲの隊長とあかりちゃん問題」とか、露骨なセクシズムなんだけど何が問題なのかわかってない人って男女ともに結構いるわね。
(おじさんが「教えてあげる」と上から目線の相手が「女子高生」だというのが「女子ども」を馬鹿にした前提に由るから問題なのです。念のため)
って、タチ悪ぅーー。
だってさ、「父親が居たことに驚いていたように見えた」ってことはさ、父親が側に居るってわかってたらやんなかったかもしれないってことでしょ?「真っ当な教育的行為」ならさ、誰が側に居ようがやったらいいじゃんか。真っ当なんだもの。
父親が居た事に驚いたのは、自分の行為が真っ当じゃない自覚があったからよ。当然よ、一歳の赤ちゃんを殴るなんて。相手によって態度変えて、正義気取りってサイアク。
百歩譲って、相手によって態度変えるのは社交のための技術でもいいわよ。でも、「常識的な大のオトコ」って自己認識だったらさ、「自分より腕力劣ってそう」って看做した相手に暴力ふるうんじゃないよ。
みみっちい話よ。
まあアタシも、おっさんはすべからく女子どもを頭っから馬鹿にしてるって前提でこの記事書いてるわ?そのテのおっさんは、女子どもは馬鹿だと思い込んで己のプライドを保っているから、自分より利口な女子供と遭遇するとプライド守るために支離滅裂な議論をふっかけて相手が「時間の無駄だな」って悟って黙るまで止めないとか決めつけてるわ?それで「はい論破」って鼻の穴ふくらませてるのよね、とか思い込んでるわ?
歪んだ認識だとわかってはいるのよ。でもさ、自分の歪みを気にし始めたらブログなんて書き散らかせない。
まあ、「女子供は自分より劣った生物」って前提で生きてないおじさんが存在することだって、あたくしだって存じてますよ。そうねえ、百人中三人くらいはいるんじゃないかしら。イヤだ、筆が滑り過ぎたわ。
こんな素敵な月夜に何書いてるんだか、アタシ。
そうか、弱いもの虐めどころか、「真っ当な教育的行為」って自己認識かもしれないわけね。「ヒゲの隊長とあかりちゃん問題」とか、露骨なセクシズムなんだけど何が問題なのかわかってない人って男女ともに結構いるわね。
(おじさんが「教えてあげる」と上から目線の相手が「女子高生」だというのが「女子ども」を馬鹿にした前提に由るから問題なのです。念のため)
って、タチ悪ぅーー。
だってさ、「父親が居たことに驚いていたように見えた」ってことはさ、父親が側に居るってわかってたらやんなかったかもしれないってことでしょ?「真っ当な教育的行為」ならさ、誰が側に居ようがやったらいいじゃんか。真っ当なんだもの。
父親が居た事に驚いたのは、自分の行為が真っ当じゃない自覚があったからよ。当然よ、一歳の赤ちゃんを殴るなんて。相手によって態度変えて、正義気取りってサイアク。
百歩譲って、相手によって態度変えるのは社交のための技術でもいいわよ。でも、「常識的な大のオトコ」って自己認識だったらさ、「自分より腕力劣ってそう」って看做した相手に暴力ふるうんじゃないよ。
みみっちい話よ。
まあアタシも、おっさんはすべからく女子どもを頭っから馬鹿にしてるって前提でこの記事書いてるわ?そのテのおっさんは、女子どもは馬鹿だと思い込んで己のプライドを保っているから、自分より利口な女子供と遭遇するとプライド守るために支離滅裂な議論をふっかけて相手が「時間の無駄だな」って悟って黙るまで止めないとか決めつけてるわ?それで「はい論破」って鼻の穴ふくらませてるのよね、とか思い込んでるわ?
歪んだ認識だとわかってはいるのよ。でもさ、自分の歪みを気にし始めたらブログなんて書き散らかせない。
まあ、「女子供は自分より劣った生物」って前提で生きてないおじさんが存在することだって、あたくしだって存じてますよ。そうねえ、百人中三人くらいはいるんじゃないかしら。イヤだ、筆が滑り過ぎたわ。
こんな素敵な月夜に何書いてるんだか、アタシ。
2015年09月27日
なぜなんだ
ベビーカーに乗せられた1歳児が64才の男性から暴行を受けるという事件があったらしい。
なんじゃこら?
被害者側の男性は、「憂さ晴らしでやったようだ」と書いておられるが、それにしても憂さ晴らしでこんな甚だしい弱いもの虐めをするとはどういうこった。
しかも、ベビーカーや赤ちゃんや幼児連れの女性が嫌がらせをされる事件って多いらしい。どう考えてもそれ弱いもの虐め。虐める側には「自分は卑怯である」という自覚はないのだろうか。
あったら虐めないよね。
こういう事件の加害者のメンタリティってどうなっているんだろう。ただ、自分が不当なことをしている、という自覚があって実際に不当な加害行為をする人ってそんなにいないと思うのよ。加害者って、加害の自覚がないか、あっても、加害による被害に不釣り合いな軽い自覚しか無いことがほとんどだと思う。
本件のように逮捕に至る事例じゃなくても、弱いもの虐めをして全く悪びれない人っているよね。そういう人たちって、「不当な被害を被ってるのはむしろ自分の方」って思ってる節がある。生活保護受給者たたきや、ヘイトスピーカー、モラルハラスメントする人といった人達からはそういう気配を感じる。だから、自分がしていることは弱いもの虐めではなくむしろ正義だ、くらいの。
なんでなんだろうな、「自分は不当に扱われている弱者なんです」って思いたがる人いっぱいいるよね。弱者でいる方が楽だから?善と悪しかない単純な世界観の中では、弱者の方が善で正義だから?
少なくとも、弱者でいると、いろんな責任を免除されるよね。責任を負いたくないのか。責任がなければ、批判する一方でもOKだもんね。「自分にも責任がある」と自覚していれば、批判するだけでは済まない。自分は優位にいるって味わう最もお手軽な方法の一つが批判することなんで、お手軽に自分バンザイをしたい人は、いろいろ免責されてる弱者自己認識を持つでしょうね。
すごくみっともない自己認識だと思う。
でもウッカリしてると、私も弱者自己認識持ってるときあるかも。うっへぁー。気をつけよう。
なんじゃこら?
被害者側の男性は、「憂さ晴らしでやったようだ」と書いておられるが、それにしても憂さ晴らしでこんな甚だしい弱いもの虐めをするとはどういうこった。
しかも、ベビーカーや赤ちゃんや幼児連れの女性が嫌がらせをされる事件って多いらしい。どう考えてもそれ弱いもの虐め。虐める側には「自分は卑怯である」という自覚はないのだろうか。
あったら虐めないよね。
こういう事件の加害者のメンタリティってどうなっているんだろう。ただ、自分が不当なことをしている、という自覚があって実際に不当な加害行為をする人ってそんなにいないと思うのよ。加害者って、加害の自覚がないか、あっても、加害による被害に不釣り合いな軽い自覚しか無いことがほとんどだと思う。
本件のように逮捕に至る事例じゃなくても、弱いもの虐めをして全く悪びれない人っているよね。そういう人たちって、「不当な被害を被ってるのはむしろ自分の方」って思ってる節がある。生活保護受給者たたきや、ヘイトスピーカー、モラルハラスメントする人といった人達からはそういう気配を感じる。だから、自分がしていることは弱いもの虐めではなくむしろ正義だ、くらいの。
なんでなんだろうな、「自分は不当に扱われている弱者なんです」って思いたがる人いっぱいいるよね。弱者でいる方が楽だから?善と悪しかない単純な世界観の中では、弱者の方が善で正義だから?
少なくとも、弱者でいると、いろんな責任を免除されるよね。責任を負いたくないのか。責任がなければ、批判する一方でもOKだもんね。「自分にも責任がある」と自覚していれば、批判するだけでは済まない。自分は優位にいるって味わう最もお手軽な方法の一つが批判することなんで、お手軽に自分バンザイをしたい人は、いろいろ免責されてる弱者自己認識を持つでしょうね。
すごくみっともない自己認識だと思う。
でもウッカリしてると、私も弱者自己認識持ってるときあるかも。うっへぁー。気をつけよう。
2015年09月26日
うんざりする話
数日前、私のツィッターのタイムラインでホットだった話題について。
ことの発端は、こちらのブログ。
そして、こちらのブログにうまくまとまっているような反論が、我がTLには流れていました。
先にリンクした、加害者男性とソックリなメンタリティを持っている男性はたくさんいて、めずらしくも何ともない。「こんな酷いことをしたサイテーなオレ」話をしつつ、「己の罪に気がついて、恥ずかしいけどconfessionできるオレ」にウットリしてる男。「フツーの男ならこんなこと話せないだろ?だけど、オレできちゃうんだよ。オレすごい男だから」という自意識過剰がだだ漏れだ。そういう輩が沢山いるということに私はウンザリしている。ウンザリしすぎて思考停止に陥るほどに。いやもうほんとに、考えるのもやだよ。だって変わらないもん、こういう男って。
罪の告白をこのような形ですることが、必ずしも己の行為や思考パターンの加害性や歪みを認識して受け入れ、罪悪感をもって悔い改めるということに結びついてはいないことを、私は結構実際に見聞きしてるから知ってるんだよ。
過去の罪の告白をしました。これで禊は済みました。以上です。で止まっちゃってる人いっぱいいる。止まってんじゃねーよ。ちょっとくらい罪悪感に押しつぶされなよ。そうじゃないと、被害者が浮かばれないのよ!
必ずしも反省や後悔から罪の告白をするわけじゃない。そういう人は、なんか罪悪感はあるんだけど、それを自分一人で抱えてるのはしんどいから、誰かに話して楽になりたいだけなのよ。で、自分が許される前提で話すよね。そうじゃなきゃ話さない。話す相手や状況を周到に巧妙に選んでる。自分には悪がある、とか、加害した、とか本心から冷静に認められる男はあんまりいない。
加害の認識はあっても、被害を低く見積もるとかね。「このくらいのことで、そんなに傷つくなんて」めいた言い訳もよく聞く。「このくらいのこと」って、お前が鈍感なだけだ。
冷静に、というのが肝で、「自分は悪事をはたらいた」って認めるとさ、途端にいじける手合いが多いんだ。一人っきりのときにいじけてるなら別にいいんだけど、いじけてる人って「いじけて見せる」よね。これさあ、「自分をなぐさめろ」っていう周囲に対する要求でしょう。いじけてる人が嫌われるってのはこういうこと。周囲に対して自己中で不当な要求をしているからです。
これは男女問わずだけど、他者に対する加害に鈍感な人って、自分が傷ついたってことには敏感なのよ。「みんなの中で、自分が一番繊細で傷つきやすい」って思ってる人は、自分はとんでもなく鈍感な可能性がある、って注意したほうがいいわ。
男たちのconfessionって、まあ個々人の状況によってディテイルは異なるけど内容を煎じ詰めると、「こんなに凄いのに世間に認められない不遇なオレ」に収斂しちゃうんだよね。これに、「こんな不遇なオレに優しくしてくれない女どもの馬鹿」がくっつく男もいる。まあ大体そんな感じなんで、聴いててつまんないんだ。
「そんなに凄けりゃ世間の方から勝手に認めてくれるだろうよ、そうじゃないって事は、アンタ自分が思ってるほど凄くないってことだよ」、って私は思うんだけど、「自分の罪悪」を受け入れて抱えて行くのが難しい人にとっては「別に凄くもない自分」もまた、受け入れて抱えて行くのが難しいんだろうね。
つうか、「自分の罪悪」とか「凄くない自分」だとかを受け入れるのって、こういう人たちにとっては「負け」なんだろね。勝ち負けじゃないんだけど。ああ、これも思い出した。
「別に凄くもない自分」を受け入れるくらいなら、「誰もやらないような犯罪行為に走って、凄い自分を世間に向けて証明してやる」、ってのが神戸の元少年Aだと私は思う。彼ほどの加害はしてなくても、やってることの内的論理は元少年Aと同じって男を何人か知っている。凡庸でいるくらいなら軽犯罪者の方がマシだってことだと思う。
しかしだ、凡庸なのに凡庸だと認めたくないというごく自己中心な欲求のために、直接或は間接的に被害に遭ってる他人さんがいるわけさ。犯罪行為は加害行為なんだからさ。そういう人って他人を人間だと思ってないよね。「凄いオレ」の証明のために利用してるんだけどさ、そういう言葉にして理解しているわけではないから、利用している自覚がない。自覚が無いんだから、どれほどconfessionしても変わらない。
救いの無い話ですよ。ええ。
ことの発端は、こちらのブログ。
そして、こちらのブログにうまくまとまっているような反論が、我がTLには流れていました。
先にリンクした、加害者男性とソックリなメンタリティを持っている男性はたくさんいて、めずらしくも何ともない。「こんな酷いことをしたサイテーなオレ」話をしつつ、「己の罪に気がついて、恥ずかしいけどconfessionできるオレ」にウットリしてる男。「フツーの男ならこんなこと話せないだろ?だけど、オレできちゃうんだよ。オレすごい男だから」という自意識過剰がだだ漏れだ。そういう輩が沢山いるということに私はウンザリしている。ウンザリしすぎて思考停止に陥るほどに。いやもうほんとに、考えるのもやだよ。だって変わらないもん、こういう男って。
罪の告白をこのような形ですることが、必ずしも己の行為や思考パターンの加害性や歪みを認識して受け入れ、罪悪感をもって悔い改めるということに結びついてはいないことを、私は結構実際に見聞きしてるから知ってるんだよ。
過去の罪の告白をしました。これで禊は済みました。以上です。で止まっちゃってる人いっぱいいる。止まってんじゃねーよ。ちょっとくらい罪悪感に押しつぶされなよ。そうじゃないと、被害者が浮かばれないのよ!
必ずしも反省や後悔から罪の告白をするわけじゃない。そういう人は、なんか罪悪感はあるんだけど、それを自分一人で抱えてるのはしんどいから、誰かに話して楽になりたいだけなのよ。で、自分が許される前提で話すよね。そうじゃなきゃ話さない。話す相手や状況を周到に巧妙に選んでる。自分には悪がある、とか、加害した、とか本心から冷静に認められる男はあんまりいない。
加害の認識はあっても、被害を低く見積もるとかね。「このくらいのことで、そんなに傷つくなんて」めいた言い訳もよく聞く。「このくらいのこと」って、お前が鈍感なだけだ。
冷静に、というのが肝で、「自分は悪事をはたらいた」って認めるとさ、途端にいじける手合いが多いんだ。一人っきりのときにいじけてるなら別にいいんだけど、いじけてる人って「いじけて見せる」よね。これさあ、「自分をなぐさめろ」っていう周囲に対する要求でしょう。いじけてる人が嫌われるってのはこういうこと。周囲に対して自己中で不当な要求をしているからです。
これは男女問わずだけど、他者に対する加害に鈍感な人って、自分が傷ついたってことには敏感なのよ。「みんなの中で、自分が一番繊細で傷つきやすい」って思ってる人は、自分はとんでもなく鈍感な可能性がある、って注意したほうがいいわ。
男たちのconfessionって、まあ個々人の状況によってディテイルは異なるけど内容を煎じ詰めると、「こんなに凄いのに世間に認められない不遇なオレ」に収斂しちゃうんだよね。これに、「こんな不遇なオレに優しくしてくれない女どもの馬鹿」がくっつく男もいる。まあ大体そんな感じなんで、聴いててつまんないんだ。
「そんなに凄けりゃ世間の方から勝手に認めてくれるだろうよ、そうじゃないって事は、アンタ自分が思ってるほど凄くないってことだよ」、って私は思うんだけど、「自分の罪悪」を受け入れて抱えて行くのが難しい人にとっては「別に凄くもない自分」もまた、受け入れて抱えて行くのが難しいんだろうね。
つうか、「自分の罪悪」とか「凄くない自分」だとかを受け入れるのって、こういう人たちにとっては「負け」なんだろね。勝ち負けじゃないんだけど。ああ、これも思い出した。
「別に凄くもない自分」を受け入れるくらいなら、「誰もやらないような犯罪行為に走って、凄い自分を世間に向けて証明してやる」、ってのが神戸の元少年Aだと私は思う。彼ほどの加害はしてなくても、やってることの内的論理は元少年Aと同じって男を何人か知っている。凡庸でいるくらいなら軽犯罪者の方がマシだってことだと思う。
しかしだ、凡庸なのに凡庸だと認めたくないというごく自己中心な欲求のために、直接或は間接的に被害に遭ってる他人さんがいるわけさ。犯罪行為は加害行為なんだからさ。そういう人って他人を人間だと思ってないよね。「凄いオレ」の証明のために利用してるんだけどさ、そういう言葉にして理解しているわけではないから、利用している自覚がない。自覚が無いんだから、どれほどconfessionしても変わらない。
救いの無い話ですよ。ええ。