2015年10月13日
ジョリィふたたび
40才以上の皆様、憶えてらっしゃいますか?アニメ、「名犬ジョリィ」。「白い魔犬」と恐れられたグレート・ピレニーズと少年セバスチャンの冒険譚でございますよ。
これが実写化されました。「ベル&セバスチャン」
あたくしは観にまいりますよ。わたしの愛する、アンドレアス・ピーチュマンがナチの将校役で出演していますから。

ああ、アンディの姿を日本で、スクリーンで観られる日が来るとは。感無量でございますよ。
まあ、ナチの将校なんで本作では悪役なんですが、彼はガチな宗教映画でキリストの役もやっています。

この、青と赤の衣ね。西洋絵画に親しんでいらっしゃる方には既知のお約束ですね。
キリスト教徒の国で、キリストを演じる。これはすごいことなんですよ。
流石は、わたしの愛するアンディ君。
これが実写化されました。「ベル&セバスチャン」
あたくしは観にまいりますよ。わたしの愛する、アンドレアス・ピーチュマンがナチの将校役で出演していますから。

ああ、アンディの姿を日本で、スクリーンで観られる日が来るとは。感無量でございますよ。
まあ、ナチの将校なんで本作では悪役なんですが、彼はガチな宗教映画でキリストの役もやっています。

この、青と赤の衣ね。西洋絵画に親しんでいらっしゃる方には既知のお約束ですね。
キリスト教徒の国で、キリストを演じる。これはすごいことなんですよ。
流石は、わたしの愛するアンディ君。
2015年10月12日
顔のないヒトラーたち
ドイツでは、日本でやる「挙手」のように大きく手を挙げるのはダブーなんだそうだ。「ハイル・ヒトラー」を連想させるからだとか。
こんな枕で始めたのは、先日、「顔のないヒトラーたち」という映画を観たから。日本では、我々と同じく敗戦国のドイツにおける戦後補償について、「あれはナチのやったこと。ヒトラーという狂人のやったこと」と、「ドイツ人」の責任にせずにすんでいるのだ、という話を私は昔、TVで聞いたんだ。
けれど、この映画を観るとそれは違うんじゃないかと思う。こういう映画が作られるということは、ドイツ人は、「アウシュヴィッツの責任は、我々ドイツ人が負う」と決めているんじゃないかと。
以下、ネタばれ含みます。映画を未見の方はご注意くださいね。
物語が始まるのは、1958年。多くのドイツ人達は、アウシュヴィッツを、そこで何が行われていたのかを知らなかった。そこで行われていたことを知っていたドイツ人達は、「知らせず、葬り去ろう」と思っていた。けれど、そうはならなかった。アウシュヴィッツを知っていて、そこで行われていた事を、世間に知らせようと思っていた人物たちがいたからだ。それら人物には、生き残りのユダヤ人や、アウシュヴィッツを恥じた当のドイツ人もいた。
「ドイツ人は、ナチとドイツ人を分離して戦争責任を考えている」と日本人の識者は言ったけれども、第二次大戦当時のドイツ人の多くはナチだった。主人公が、自分の父親もナチの党員だったことを知り、やさぐれて酔っぱらい、道行く見ず知らずの人びとに「あんたもナチだったのか」と絡むシーンがある。
さしずめ日本ならば、「あんたも軍国主義だったのか」と絡むようなものだろう。「違う」と言ったならば、多くの日本人は嘘吐きになったはずだ。
これが「凡庸な悪」である。「悪人は凡庸である」という意味ではない。凡庸な人間は、「空気」に簡単に流されてしまう。これが悪なのだ。そういう世の中になれば、私も流されるだろう。しかし、生来気弱で小心なので大悪にはなれない。小悪人がせいぜいだ。そして、悪人である自分を認めたくなくてぐだぐだと言い訳するんだろうと思う。
1958年のドイツ人たちにも、そういうところがあった。そういえば、ナチに反発して米軍を支持したマレーネ・ディートリヒは「売国奴」と呼ばれた。だが、今のドイツ人は違うように私には見える。「ホロコーストは、ドイツ人がやったこと」と認めているように見える。
その根底にあるのは、この映画を観るかぎりでは、「人が人に対して何という残虐を行ったのか」という驚愕にあるように思う。ユダヤ人に加えられた想像を絶する非道な行為が、私に加えられたものだったなら、という想像にあるように思う。ユダヤ人もドイツ人も、同じ「人」なのだという認識が、挙手でさえタブーにする今のドイツを作ったのだと思う。
ひるがえって我々日本人はどうだろうか。ユネスコが南京大虐殺を記憶遺産に登録したことについて、「そんなことするならもうユネスコに金はださないよ(意訳)」と政府の公人が述べたのはどうだろうか。「シベリア抑留」が登録されたことは諸手を挙げて歓迎したくせにさ。
南京大虐殺の「犠牲者の数」がプロパガンダに利用されている節があるのは否めない。だが、だからといって虐殺の有無そのものが問われるものなのか。いや、私ほんとうにわからないのよ。日本に生まれて日本から出た事ないからさ、南京大虐殺って史実なわけ?日本の報道だと、わからない。おそらく、実際に虐殺の事実はあったんだろうと私は思ってる。これが史実かどうかさえ私があやふやなのは、日本人は記録を燃したり墨でつぶしたりすることを、私知ってるからさ。
責任を誰もとらない。東京五輪関係のごたごたで、再度はっきりとしちゃった。日本人が何を言っても、私はそれを鵜呑みにはしない。事実関係を、自分なりに確認するまでは。
第二次世界大戦当時、日本人は中国人を殺した。これは間違いない。だってそういうのが戦争だからさ。勿論、日本人も殺されたんだけど。だってそういうのが戦争だからさ。
日本は戦争をした。それは史実だ。人を殺さない戦争は無い。だから、当時の日本人は、人を殺したんだ。これは、認めなくちゃ何にも始まらない。日本人が殺されもしたけど、だからってそれで人を殺した事が相殺されはしない。だって、それが人の掟ってものじゃない?情状は酌量されても、殺人は殺人なんだよ。
私は、人って何とか国民の何民族だろうと、本質は違わないっていう信念を持っている。柴犬だろうがダックスフントだろうが犬は犬なのと同じように、人は人だ。
ドイツ人にできることが、日本人にできないはずはない。
受け入れがたい事を前にしても、まずは感情を抑えなくてはなるまい。それが出来なければ、人は「凡庸な悪」でしかない。ドイツ人であろうと、日本人であろうと、他の誰であろうと。
第二次世界大戦当時、軍国主義者だったのは私たちのおじいちゃんやおばあちゃん。父さんや母さん。「仕方なかった」ですませたいのはやまやまだが、そうしたらまた同じ轍を踏むかもしれない。そのとき殺すのは、殺されるのは、今は亡きおじいちゃんやおばあちゃんや父さんや母さんではなく、今生きている私やあなたかもしれない。
思考を停止しないで。
「顔のないヒトラーたち」、原題は「沈黙の迷宮で(Im Labyrinth des Schweigens)」という。辛気くさい反省映画ではない。ドイツの戦後に興味もなかった私をグイグイ物語に引きつけた娯楽作でもある。この脚本、すごいと思う。興味のある方はぜひ、ご覧になってください。面白いですよ。
こんな枕で始めたのは、先日、「顔のないヒトラーたち」という映画を観たから。日本では、我々と同じく敗戦国のドイツにおける戦後補償について、「あれはナチのやったこと。ヒトラーという狂人のやったこと」と、「ドイツ人」の責任にせずにすんでいるのだ、という話を私は昔、TVで聞いたんだ。
けれど、この映画を観るとそれは違うんじゃないかと思う。こういう映画が作られるということは、ドイツ人は、「アウシュヴィッツの責任は、我々ドイツ人が負う」と決めているんじゃないかと。
以下、ネタばれ含みます。映画を未見の方はご注意くださいね。
物語が始まるのは、1958年。多くのドイツ人達は、アウシュヴィッツを、そこで何が行われていたのかを知らなかった。そこで行われていたことを知っていたドイツ人達は、「知らせず、葬り去ろう」と思っていた。けれど、そうはならなかった。アウシュヴィッツを知っていて、そこで行われていた事を、世間に知らせようと思っていた人物たちがいたからだ。それら人物には、生き残りのユダヤ人や、アウシュヴィッツを恥じた当のドイツ人もいた。
「ドイツ人は、ナチとドイツ人を分離して戦争責任を考えている」と日本人の識者は言ったけれども、第二次大戦当時のドイツ人の多くはナチだった。主人公が、自分の父親もナチの党員だったことを知り、やさぐれて酔っぱらい、道行く見ず知らずの人びとに「あんたもナチだったのか」と絡むシーンがある。
さしずめ日本ならば、「あんたも軍国主義だったのか」と絡むようなものだろう。「違う」と言ったならば、多くの日本人は嘘吐きになったはずだ。
これが「凡庸な悪」である。「悪人は凡庸である」という意味ではない。凡庸な人間は、「空気」に簡単に流されてしまう。これが悪なのだ。そういう世の中になれば、私も流されるだろう。しかし、生来気弱で小心なので大悪にはなれない。小悪人がせいぜいだ。そして、悪人である自分を認めたくなくてぐだぐだと言い訳するんだろうと思う。
1958年のドイツ人たちにも、そういうところがあった。そういえば、ナチに反発して米軍を支持したマレーネ・ディートリヒは「売国奴」と呼ばれた。だが、今のドイツ人は違うように私には見える。「ホロコーストは、ドイツ人がやったこと」と認めているように見える。
その根底にあるのは、この映画を観るかぎりでは、「人が人に対して何という残虐を行ったのか」という驚愕にあるように思う。ユダヤ人に加えられた想像を絶する非道な行為が、私に加えられたものだったなら、という想像にあるように思う。ユダヤ人もドイツ人も、同じ「人」なのだという認識が、挙手でさえタブーにする今のドイツを作ったのだと思う。
ひるがえって我々日本人はどうだろうか。ユネスコが南京大虐殺を記憶遺産に登録したことについて、「そんなことするならもうユネスコに金はださないよ(意訳)」と政府の公人が述べたのはどうだろうか。「シベリア抑留」が登録されたことは諸手を挙げて歓迎したくせにさ。
南京大虐殺の「犠牲者の数」がプロパガンダに利用されている節があるのは否めない。だが、だからといって虐殺の有無そのものが問われるものなのか。いや、私ほんとうにわからないのよ。日本に生まれて日本から出た事ないからさ、南京大虐殺って史実なわけ?日本の報道だと、わからない。おそらく、実際に虐殺の事実はあったんだろうと私は思ってる。これが史実かどうかさえ私があやふやなのは、日本人は記録を燃したり墨でつぶしたりすることを、私知ってるからさ。
責任を誰もとらない。東京五輪関係のごたごたで、再度はっきりとしちゃった。日本人が何を言っても、私はそれを鵜呑みにはしない。事実関係を、自分なりに確認するまでは。
第二次世界大戦当時、日本人は中国人を殺した。これは間違いない。だってそういうのが戦争だからさ。勿論、日本人も殺されたんだけど。だってそういうのが戦争だからさ。
日本は戦争をした。それは史実だ。人を殺さない戦争は無い。だから、当時の日本人は、人を殺したんだ。これは、認めなくちゃ何にも始まらない。日本人が殺されもしたけど、だからってそれで人を殺した事が相殺されはしない。だって、それが人の掟ってものじゃない?情状は酌量されても、殺人は殺人なんだよ。
私は、人って何とか国民の何民族だろうと、本質は違わないっていう信念を持っている。柴犬だろうがダックスフントだろうが犬は犬なのと同じように、人は人だ。
ドイツ人にできることが、日本人にできないはずはない。
受け入れがたい事を前にしても、まずは感情を抑えなくてはなるまい。それが出来なければ、人は「凡庸な悪」でしかない。ドイツ人であろうと、日本人であろうと、他の誰であろうと。
第二次世界大戦当時、軍国主義者だったのは私たちのおじいちゃんやおばあちゃん。父さんや母さん。「仕方なかった」ですませたいのはやまやまだが、そうしたらまた同じ轍を踏むかもしれない。そのとき殺すのは、殺されるのは、今は亡きおじいちゃんやおばあちゃんや父さんや母さんではなく、今生きている私やあなたかもしれない。
思考を停止しないで。
「顔のないヒトラーたち」、原題は「沈黙の迷宮で(Im Labyrinth des Schweigens)」という。辛気くさい反省映画ではない。ドイツの戦後に興味もなかった私をグイグイ物語に引きつけた娯楽作でもある。この脚本、すごいと思う。興味のある方はぜひ、ご覧になってください。面白いですよ。