2015年05月04日
そうは問屋が卸さない
相変わらず、「世界が認めた日本の○○」とか、「だから日本は世界で愛される」たらいう題名のTV番組や書籍がそこらじゅうにある。
あたしゃ、これは日本人の精神的マスターベーションだと思っていた。「どうよ日本、たいしたもんだろ」って、一人ウットリしたいから、こういう「オカズ」が必要なんだと思っていた。
わたしはこういうのが気持ち悪くて、「何なんでしょうあれは。精神的マスターベーション気持ち悪い」って、お世話になってるメゾン・ド・梁山泊の大家さんに言ったら、大家さんは「日本の人たち、傷ついているからだよ」って仰った。私、人の話を聴かずに自分の言いたい事をまず言う悪い癖があるから、その時は「一体何故、何に日本人は傷ついているのか」って大家さんに訊くことはなかった。バカなことしたな。今度、大家さんとお話できる機会があったら訊いてみよう。
ところで、日本人が海外の反応を気にするのは、単に「愛される自分(たち)」を確認したいからでも、世界という世間様に自分たちが受け入れられているのかどうかを気にしているばかりでもないのでは、と最近思いついた。
多分日本人は、外国人たちの自分たちに対する反応を知る事で、「どいつらが自分たちの『ミウチ』か」を推し量っているんだと思う。「ミウチ」ってのは、つまり「味方」で、日本人の感覚では、味方やミウチは決して自分(たち)に異論を唱えたり反論したり、つまり否定的な、空気読まない言動は取らないことになっている。ミウチや味方はつまり、自分自身と同質のもので、細かい差異なんかないし、それに異を唱えることなんか許されないのだ。異なんかあるものは「よそさん」「敵」で、信用なんかできないというのが、日本人の世界観なのだ。
不健全な「他人」観だと思う。自分と同じ他人なんか存在しない。どれほど受容的で共感的な他者であっても、差異はあるし、同感も受容もできない部分だってある。しかし、他人と自分の間に差異があるのは当然だから、そうした面倒臭さも込み込みなのが人と人との関係なのだ、って清濁遭わせ呑むのが大人の人間関係なんだよね。
「ミウチ」なら完全に味方、拒絶も否定もあり得ない、って他者との関係に期待する方が幼稚だ。自分に対して相手が一部否定的、あるいは、どうしても受け入れがたい一面が相手にある、そうであっても、相手にいいところがあれば、完全に没交渉にしないで距離を加減しつつ付き合って行くのが大人の対外交際であろう。
否定批判皆無で完全受容してくれる他人なんて存在しない。自分だって、他者を完全肯定受容なんて出来はしないはず。
世界でこんなに愛されている日本人、尊敬されている日本人、なんていくら言い募ったところで、否定批判皆無の他者全受容なんて、自分が相手に対してできないことを、自分にはしてくれる他者なんて現れない。そういう他者の存在に期待するのは、結局自分に自信が無いから。否定されることに耐えられないから。
世界で愛される日本人、嫌われる○○人、なんてただの欺瞞よ。人が人から好かれたり嫌われたりするのは、□△国人だからというよりは、その個人の人間性によるものが大きい。
世界で愛される日本のなんちゃら、なんて情報をいくらインプットしたところで、「日本人である自分は他者から好かれる」っていう自信を得る助けにはならない。そういう自信は、自分が個人的に別の個人と関わることでしか得られない。そしてその自信は、「日本人だから好かれる」では無い筈よ。「私が私だから好かれる。その私は、たまたま日本人である」くらいのもの。
どこそこ国は親日、どこそこ国で日本人が現地人から尊敬されてるなんて情報で、日本人である自分は外国人達から受容されるのかどうか、なんて貴方の不安は解消されない。
そもそも、「ミウチ」「味方」ならば自分を否定しない、というのが幻想でしかないのよ。
問屋さん結構複雑でね、そんな簡単に心をラクにはしてくれないみたいなんだー。
あたしゃ、これは日本人の精神的マスターベーションだと思っていた。「どうよ日本、たいしたもんだろ」って、一人ウットリしたいから、こういう「オカズ」が必要なんだと思っていた。
わたしはこういうのが気持ち悪くて、「何なんでしょうあれは。精神的マスターベーション気持ち悪い」って、お世話になってるメゾン・ド・梁山泊の大家さんに言ったら、大家さんは「日本の人たち、傷ついているからだよ」って仰った。私、人の話を聴かずに自分の言いたい事をまず言う悪い癖があるから、その時は「一体何故、何に日本人は傷ついているのか」って大家さんに訊くことはなかった。バカなことしたな。今度、大家さんとお話できる機会があったら訊いてみよう。
ところで、日本人が海外の反応を気にするのは、単に「愛される自分(たち)」を確認したいからでも、世界という世間様に自分たちが受け入れられているのかどうかを気にしているばかりでもないのでは、と最近思いついた。
多分日本人は、外国人たちの自分たちに対する反応を知る事で、「どいつらが自分たちの『ミウチ』か」を推し量っているんだと思う。「ミウチ」ってのは、つまり「味方」で、日本人の感覚では、味方やミウチは決して自分(たち)に異論を唱えたり反論したり、つまり否定的な、空気読まない言動は取らないことになっている。ミウチや味方はつまり、自分自身と同質のもので、細かい差異なんかないし、それに異を唱えることなんか許されないのだ。異なんかあるものは「よそさん」「敵」で、信用なんかできないというのが、日本人の世界観なのだ。
不健全な「他人」観だと思う。自分と同じ他人なんか存在しない。どれほど受容的で共感的な他者であっても、差異はあるし、同感も受容もできない部分だってある。しかし、他人と自分の間に差異があるのは当然だから、そうした面倒臭さも込み込みなのが人と人との関係なのだ、って清濁遭わせ呑むのが大人の人間関係なんだよね。
「ミウチ」なら完全に味方、拒絶も否定もあり得ない、って他者との関係に期待する方が幼稚だ。自分に対して相手が一部否定的、あるいは、どうしても受け入れがたい一面が相手にある、そうであっても、相手にいいところがあれば、完全に没交渉にしないで距離を加減しつつ付き合って行くのが大人の対外交際であろう。
否定批判皆無で完全受容してくれる他人なんて存在しない。自分だって、他者を完全肯定受容なんて出来はしないはず。
世界でこんなに愛されている日本人、尊敬されている日本人、なんていくら言い募ったところで、否定批判皆無の他者全受容なんて、自分が相手に対してできないことを、自分にはしてくれる他者なんて現れない。そういう他者の存在に期待するのは、結局自分に自信が無いから。否定されることに耐えられないから。
世界で愛される日本人、嫌われる○○人、なんてただの欺瞞よ。人が人から好かれたり嫌われたりするのは、□△国人だからというよりは、その個人の人間性によるものが大きい。
世界で愛される日本のなんちゃら、なんて情報をいくらインプットしたところで、「日本人である自分は他者から好かれる」っていう自信を得る助けにはならない。そういう自信は、自分が個人的に別の個人と関わることでしか得られない。そしてその自信は、「日本人だから好かれる」では無い筈よ。「私が私だから好かれる。その私は、たまたま日本人である」くらいのもの。
どこそこ国は親日、どこそこ国で日本人が現地人から尊敬されてるなんて情報で、日本人である自分は外国人達から受容されるのかどうか、なんて貴方の不安は解消されない。
そもそも、「ミウチ」「味方」ならば自分を否定しない、というのが幻想でしかないのよ。
問屋さん結構複雑でね、そんな簡単に心をラクにはしてくれないみたいなんだー。
Posted by 近江ヴェロニカ at 00:19│Comments(0)
│たいくつ日報