2015年02月24日
ほとんど宗教
ムラ人道とは、それすなわち日本人道と見つけたり。
ムラ人道の実践者は、信じたものは疑わない。それについて、深く考えることもしない。深く考えたりなんかするのは、批判がましいし。
ムラ人道お家元、マイコさん(仮名)がある日、「グルテンフリーダイエットを始めたの」と言った。「マイコさん(仮名)、小麦アレルギーでしたっけ?」と問うと、「ううん」と答える。それ以前にもグルテンフリーダイエットという言葉を聞いたことはあったが、グルテン抜き食生活のどこがどう、健康に良いのか私は知らなかったので、「グルテンフリーでどうなるんですか」と訊いたら、「わからない」とのこと。
なんじゃそら。わからんのにやってるんかい。
ま、こんなのはほんの一例。なんかこう、ムラ人メンタリティの人って、「これ!」って何かや誰かを信じたら、それについて深く考えたり調べたりしないのよ。健康法なんか、それが科学的にどういう作用機構で身体にどのような結果をもたらすとか何も知らずに、ただやってる。だからその結果とってもへんてこなことを言い出す人もいる。「ナントカ健康法さえやっていれば体だけでなく心も健康になって全世界から戦争が無くなる」とかさ。
お 気 は 確 か ?(ⓒゴマブッ子)
それ、ほとんど宗教じゃない。
あと、政見放送も見ないしマニフェストも読まないのに、選挙には必ず行って「○○党」に投票するとかね。「『○○党』なら間違いない」、って投票用紙はお賽銭かよ。
それから、グループや会なんかで一緒になる、あるいはネット上で同じクラスタに属する、Aさんのここは好きだけど、ここは嫌い、とかもしちゃいけない。Aさんの仲間になるって決めたら、Aさんにはおかしなところなんてない、批判なんてしちゃいけない!みたいになっちゃう。
これも宗教くさい。
人間は神ではない。肯定できる要素ばかりで成り立っている人間などはいない。どんな人間にも好きな点嫌いな点、受容できる長所批判したくなる欠点がある。「アンタそこおかしいだろ」という言葉を封ずるのは、怪しい宗教である。そこに寛容さはない。神や仏は本来寛容なものだ。
そう考えると、ムラ人道ってある種の宗教かもしれないって思えて来た。日本人は態度が曖昧です、とはよく言われる事だが、それは対象が「ミウチ」か「ヨソ者」かを峻別するまでの間のことで、一旦どちらかに分別したとなると相手への態度が決定され、よほどのことがないかぎり対応の方針が変更されることはない。
「ヨソ」に分別されたら、表面上はどう社交的であろうと本音のつきあいはされない。「ミウチ」に分別されたら仲間として受容されるが、細かいローカル・ルールに従わなくてはならないし、批判や反論は基本的に御法度。そんな仲間内では、自分の頭でものを考えたりなどする方が生きづらい。
日本人の土着のメンタリティは、「ヤンキー」だと思う。そのヤンキー度がウルトラ・マイルドだろうと、エクストラ・ハードだろうと、ヤンキッシュな人びとは「昨日と同じ明日を信じて今日を生きる」。昨日と同じ明日を迎えるのに、いちいち考え事なんかする必要は無いし、批判や反論や異なった視点などというものは、明日を昨日と同じにしておくのには邪魔になる。
だからローカル・ルールという秩序に守られたミウチで固まり、異なるルールのヨソ者とは仲間にならない。そうなると「村八分」が何より怖い。人は人に受容してもらわなくては安心して生きていけないのだ。
畢竟、「みんな」とか「世間」とかに自分はどう思われているのかが最大の関心事になる。「みんな」や「世間」にそっぽ向かれないように懸命に振る舞う。これをうちの大家さんは、「世間様教って言うんだよ」と言ったっけな。その世間様教のご本尊、なかなか姿がわからなかったが、お家元と知り合ったおかげで、「一人一人に分解したら、『世間』ってこういう顔してるのね」ってよくわかった。
世間様教の破戒なんか恐れない。もしどこかの「ミウチ」から放逐されたとしても、身を捨ててこそ浮かぶどっかの瀬に、必ずぷかりと浮くからだ。
ムラ人道の実践者は、信じたものは疑わない。それについて、深く考えることもしない。深く考えたりなんかするのは、批判がましいし。
ムラ人道お家元、マイコさん(仮名)がある日、「グルテンフリーダイエットを始めたの」と言った。「マイコさん(仮名)、小麦アレルギーでしたっけ?」と問うと、「ううん」と答える。それ以前にもグルテンフリーダイエットという言葉を聞いたことはあったが、グルテン抜き食生活のどこがどう、健康に良いのか私は知らなかったので、「グルテンフリーでどうなるんですか」と訊いたら、「わからない」とのこと。
なんじゃそら。わからんのにやってるんかい。
ま、こんなのはほんの一例。なんかこう、ムラ人メンタリティの人って、「これ!」って何かや誰かを信じたら、それについて深く考えたり調べたりしないのよ。健康法なんか、それが科学的にどういう作用機構で身体にどのような結果をもたらすとか何も知らずに、ただやってる。だからその結果とってもへんてこなことを言い出す人もいる。「ナントカ健康法さえやっていれば体だけでなく心も健康になって全世界から戦争が無くなる」とかさ。
お 気 は 確 か ?(ⓒゴマブッ子)
それ、ほとんど宗教じゃない。
あと、政見放送も見ないしマニフェストも読まないのに、選挙には必ず行って「○○党」に投票するとかね。「『○○党』なら間違いない」、って投票用紙はお賽銭かよ。
それから、グループや会なんかで一緒になる、あるいはネット上で同じクラスタに属する、Aさんのここは好きだけど、ここは嫌い、とかもしちゃいけない。Aさんの仲間になるって決めたら、Aさんにはおかしなところなんてない、批判なんてしちゃいけない!みたいになっちゃう。
これも宗教くさい。
人間は神ではない。肯定できる要素ばかりで成り立っている人間などはいない。どんな人間にも好きな点嫌いな点、受容できる長所批判したくなる欠点がある。「アンタそこおかしいだろ」という言葉を封ずるのは、怪しい宗教である。そこに寛容さはない。神や仏は本来寛容なものだ。
そう考えると、ムラ人道ってある種の宗教かもしれないって思えて来た。日本人は態度が曖昧です、とはよく言われる事だが、それは対象が「ミウチ」か「ヨソ者」かを峻別するまでの間のことで、一旦どちらかに分別したとなると相手への態度が決定され、よほどのことがないかぎり対応の方針が変更されることはない。
「ヨソ」に分別されたら、表面上はどう社交的であろうと本音のつきあいはされない。「ミウチ」に分別されたら仲間として受容されるが、細かいローカル・ルールに従わなくてはならないし、批判や反論は基本的に御法度。そんな仲間内では、自分の頭でものを考えたりなどする方が生きづらい。
日本人の土着のメンタリティは、「ヤンキー」だと思う。そのヤンキー度がウルトラ・マイルドだろうと、エクストラ・ハードだろうと、ヤンキッシュな人びとは「昨日と同じ明日を信じて今日を生きる」。昨日と同じ明日を迎えるのに、いちいち考え事なんかする必要は無いし、批判や反論や異なった視点などというものは、明日を昨日と同じにしておくのには邪魔になる。
だからローカル・ルールという秩序に守られたミウチで固まり、異なるルールのヨソ者とは仲間にならない。そうなると「村八分」が何より怖い。人は人に受容してもらわなくては安心して生きていけないのだ。
畢竟、「みんな」とか「世間」とかに自分はどう思われているのかが最大の関心事になる。「みんな」や「世間」にそっぽ向かれないように懸命に振る舞う。これをうちの大家さんは、「世間様教って言うんだよ」と言ったっけな。その世間様教のご本尊、なかなか姿がわからなかったが、お家元と知り合ったおかげで、「一人一人に分解したら、『世間』ってこういう顔してるのね」ってよくわかった。
世間様教の破戒なんか恐れない。もしどこかの「ミウチ」から放逐されたとしても、身を捨ててこそ浮かぶどっかの瀬に、必ずぷかりと浮くからだ。
Posted by 近江ヴェロニカ at 22:22│Comments(0)
│ムラ人道